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名古屋地方裁判所 平成8年(ワ)2740号 判決 1998年2月23日

原告 宮崎邦彦

被告 名古屋市

右代表者市長 松原武久

右訴訟代理人弁護士 鈴木匡

同 大場民男

右両名訴訟復代理人弁護士 鈴木雅雄

同 深井靖博

同 堀口久

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一〇〇万円及びこれに対する平成八年八月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は、昭和四四年四月一日被告の教育委員会から被告公立学校教員に任命され、昭和六〇年四月一日からは名古屋市立志賀中学校(以下「志賀中学校」という。)に、平成五年四月一日からは同市立桜田中学校(以下「桜田中学校」といい、志賀中学校と併せて「両中学校」という。)にそれぞれ勤務している。

2  喫煙は、人の健康に次のような影響を及ぼしている。

(一) 製造たばこには三〇〇〇種類以上の化学物質が含まれており、その中には二〇〇ないし三〇〇種類の人体に有害な物質がある。なかでも特に有害なのは、タール(一本のたばこは約一五ミリグラムのタールを含有する。)に含まれている発がん物質、ニコチン(血管を収縮させる。)及び一酸化炭素(酸素欠乏症を引き起こす。たばこの純粋な煙に含まれている一酸化炭素の濃度は一ないし四パーセントである。)、ダイオキシンである。

(二) 直接喫煙及び受動喫煙には、<1> がん(肺がん、喉頭がん等。我が国の男子については、肺がんの原因の約七割は喫煙である。)、<2> 循環器系疾患(血管収縮、心筋梗塞、狭心症、脳卒中)、<3> 消化器系疾患(胃潰瘍、十二指腸潰瘍、食欲低下等)、<4> 慢性閉塞性肺疾患(慢性気管支炎、肺気腫)、<5> その他(妊娠合併症、ビタミンCの破壊、免疫機能の低下、善玉のHPLコレステロールの減少、運動能力の低下、精神的知的能力の低下、寿命の短縮、低体重児の出産、早産等)の害毒があり、たばこ一本の喫煙により五分三〇秒間寿命を短くするといわれているほどである。また、たばこには習慣性のあること、喫煙と肺がんや心臓病との間に因果関係のあることは、外国のたばこ製造会社も認めている。

(三) 受動喫煙は、喫煙習慣を持たない者にとって不快と感じられるばかりでなく、急性慢性の様々な健康障害を引き起こす。たばこの煙に含まれる有害物質は、主流煙よりも副流煙に、より多く含まれる(例えば、副流煙に含まれるタールやニコチンの量は、主流煙のそれの約二ないし三倍であり、同じくアンモニア等の刺激性物質は約七〇倍、物質によっては約一〇〇倍に及ぶ。)。夫がたばこを吸っている場合には、妻が肺がんにかかる率は、吸わない場合に比べて約五倍も高くなること、職場において受動喫煙を少なくとも最近一年間経験している非喫煙者が慢性呼吸器症状を示す率は、受動喫煙のない者に比し極めて高いことからして、間接喫煙の有害性は明白である。

3  被告の義務違反等

(一) 被告は、その職員が公務を遂行するに当たり、当該職員の生命及び健康を危険から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負う。

被告はまた、原告の職場の衛生を管理し、生徒の教育を管理する者として、快適な職場環境の実現と労働条件の改善を通して、職場における原告の安全と健康を確保する義務(労働安全衛生法三条一項)、原告の危険又は健康障害を防止するための措置を執り、原告の安全又は衛生のための教育を実施する義務(同法一〇条)、原告の生徒に対する教育上の効果が挙がるようできる限り努める義務(教育基本法六条二項、七条二項)を負っている。

したがって、被告は、右各義務を全うするため、その教育委員会、人事委員会及び学校管理者(校長)等において、適切な措置を講ずる義務がある。

(二) しかるに、被告は、右(一)の適切な措置を講ずる義務に違反し、職場を禁煙にすることなく、以下のとおり全く不十分な分煙措置を講じたにとどまり、結局喫煙を放置していた。

(1)  志賀中学校における措置について

志賀中学校に設けられた喫煙コーナーは、透明カーテンで仕切られた職員室の一部である。同所は「サロン」と通称され、印刷機、コンピューター、椅子等が設置され、喫煙者、非喫煙者を問わず教職員の利用する場所である。また、急を要するなどして他の場所が求められない場合に、生徒と話をすることもあった。

喫煙コーナーの入り口に設置された透明カーテンはいつも開いたままであり、換気扇は常時作動してはおらず、たばこの煙が気になる人が操作するという状態であった。空気清浄器も、気付いた人が操作しており、取付位置が室内上方であったこと、フィルター交換が適切に行われていたか疑わしいことからすると、その効果は疑問である。

(2)  桜田中学校における喫煙対策について

校内に教員用の喫煙室があるが、分煙対策としては不十分である。

4  原告の権利利益に対する侵害及びこれによって原告の被った損害

(一) 健康上の被害

(1)  原告は、両中学校において他の教員が喫煙をすることにより、前述の毒物を体内に送り込まれており、がんや循環器系の病気にかかりやすくさせられている。原告は、たばこの煙及び臭いが嫌いであり、たばこの煙に遭うと、せき、頭痛等の健康被害が生ずる。

したがって、原告は、被告の右3(二)の行為により生命、身体という一般的諸権利を侵害されたものであり、右行為は、原告に対する関係において、国家賠償法一条所定の違法な職務執行及び不法行為を構成するとともに、雇用上の債務不履行にも当たる。

(2)  受忍限度論について

原告が侵害されている利益は身体の健康という極めて重大なものであるのに対して、職員室における喫煙は、本来的に単に嗜好品を享受する行為にすぎず、そこに公共性は存しない。また、学校内を全面禁煙としても喫煙者の喫煙の自由が失われるわけではない。受忍限度論によって、原告が受動喫煙の害にさらされることを容認することは許されないというべきである。

(二) 職務(教育)遂行上の権利の侵害

原告は、生徒に対し、たばこの害について教育しているが、他の教員が喫煙しているために、十分な教育効果が挙がらず、原告は、教育遂行上の権利の侵害を受けている。

すなわち、中学生が喫煙することは禁止されており、愛知県下の中学校では、喫煙行為の有害性について、保健体育の授業を中心に教育をしている。その一方において、教員の喫煙は野放しの状態にある。生徒にいくら喫煙の有害性を説いても、当人が喫煙をしていては、生徒は本気になってたばこの害を考えることをせず、喫煙をやめる気持にもならない。教員の学校内での喫煙は、成長過程にある生徒にたばこの有害性を十分に認識させることの大きな障害となっている。

被告の右3(二)の行為は、この点においても、原告に対し、国家賠償法一条所定の違法な職務執行及び不法行為を構成するとともに、雇用上の債務不履行にも当たるというべきである。

(三) 慰謝料の金額

原告は右(一)、(二)の各被害により、肉体的かつ精神的苦痛を被った。これらの苦痛を慰藉するための金額は、金一〇〇万円を下ることはない。

5  よって、原告は、被告に対し、国家賠償法一条一項、民法七〇九条、七一五条又は雇用上の債務不履行に基づく損害賠償として、金一〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日である平成八年八月七日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2の冒頭部分の事実は知らない。主張は争う。

原告の主張するたばこの害毒性、特に発がん要因となることは、未だ客観的に立証されたものではない。受動喫煙の慢性的影響についても同様である。

(一) 同(一)の事実中、たばこにタール、ニコチン及び一酸化炭素が含まれていることは認め、その余は知らない。

(二) 同(二)、(三)の各事実は知らない。

3(一)  同3(一)、(二)は争う。

志賀中学校においては、平成二年九月旧宿直室を改造して換気扇付きの喫煙コーナーを設置し、教職員に対し、喫煙は喫煙コーナーで行うよう協力を求めてきた。そして、平成四年一月以降は、職員室内での喫煙及び会議、打合せの際の喫煙は全く行われていない。また、平成五年六月には、職員室及び保健室にエアコンディショナーが設置されたことに伴い、その作動時には窓の開放ができなくなることから、喫煙コーナーのたばこの煙が職員室への流入するおそれがあることを考慮し、これを防止するため、喫煙コーナーの入口にビニール製の透明カーテンを、喫煙コーナー内に空気清浄器をそれぞれ設置した。更に、平成八年三月には、喫煙コーナーの入口部分の天井に長さ約五〇センチメートルの透明プラスチック製の垂れ壁を設置し、換気扇一台を増設した(右透明カーテンは撤去した。)。換気扇及び空気清浄機は常時作動していた。空気清浄機は、必要に応じ修理等が行われていた。OA機器等は、喫煙コーナーの外部に設置されていた。

桜田中学校においても、原告が同校に勤務することとなった平成七年四月一日には換気扇付きの喫煙コーナーを設置しており、同年七月にはたばこの煙の職員室への流入を防止するため、喫煙コーナー入口部分に透明プラスチック板を設置している。また、教職員の間において職員室内での喫煙は行わないようにする旨の申合せが教員間でされており、会議、打合せ等の際には禁煙としている。

右のとおり、被告は、両中学校に喫煙コーナーを設置し、分煙措置を講じている。両中学校においては、職員室での喫煙は行われておらず、会議、打合せの場合においては禁煙とされている。昭和六三年一月及び平成五年六月に志賀中学校職員室において実施された環境測定の結果は、事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)三条二項において規定されている基準の適正範囲内にあったのである。桜田中学校については環境測定が実施されていないが、志賀中学校と同様の措置を講じられていることからして、同旨の結論が予想される。被告の講じたこれらの措置は、裁判例等に現れた他の公共団体の庁舎等の例に比較しても、現在の社会の状況からしても相当に進んだものである。

4(一)(1) 同4(一)(1) の事実は知らない。主張は争う。

右3に述べた両中学校の分煙措置等の状況からすれば、原告が喫煙による被害を被っているとは考えられない。また、原告は、勤務時間のうち、授業のため教室において過ごす時間が、職員室において過ごす時間に比して圧倒的に長いところ、教室においてはたばこの煙に曝されることは全くない。

したがって、原告がたばこの煙による被害を受けていないことは明らかである。職員室において原告にせき、頭痛等の症状があったとしても、それは他の要因によるものと考えるのが妥当である。

(2) 同(2) の主張は争う。学校としては禁煙・分煙措置を講じていること、教員の喫煙を禁止する法的根拠は何ら存在せず、あくまでも個人の嗜好に関する事項であり、喫煙する自由についても考慮する必要があることなどを総合的に判断すれば、原告のいうせき、頭痛の被害が受忍限度を超えたものであるとはいえない。

(二)  同(二)の事実のうち、年齢二〇歳に至らない者が喫煙することが法律上禁止されていること、愛知県下の中学校において、保健体育の授業を中心に喫煙と健康との関係につき教育をしていることは認め、その余は知らない。主張は争う。

両中学校における教職員の喫煙場所は、喫煙コーナーに限られており、教職員が生徒の面前で喫煙することは通常考えられないのであるから、教職員の喫煙によって生徒の教育に大きな弊害が生じているとはいえない。

(三)  同(三)の主張は争う。

5  同5の主張は争う。

理由

第一原告の身体に対する侵害の主張について

一  請求の原因1の事実は、当事者間に争いがない。

二  請求の原因2(一)の事実中、たばこにタール、ニコチン及び一酸化炭素が含まれていることは当事者間に争いがない。喫煙の身体に対する影響等に関する科学上の知見等については、右事実及び証拠(略)によれば、以下のとおり認められる。

1  たばこ煙は、喫煙時にたばこ自体を通過して口腔内に達する主流煙と、これの吐き出された部分である呼出煙及び点火部から立ち上る副流煙とに分けられる。

2  たばこ煙には種々の有害物質が含まれているが、そのうち生理的に影響を及ぼす主な物質は、ニコチン及び一酸化炭素である。ニコチンの薬理作用により中枢神経系の興奮が生じ、心臓、血管系への急性影響がみられる。一酸化炭素は、赤血球の酸素運搬を阻害する。

3  多くの疫学的研究から、喫煙者では、肺がんのほか、口腔がん、食道がん、胃がん、膵臓がん、肝臓がん、腎臓がん、膀胱がん、子宮がんなどのリスクが増大していることが報告されている。たばこ煙中の発がん物質による遺伝子の突然変異等の発がん機序についての研究も明らかにされつつある。

疫学的研究から、喫煙は虚血性心疾患の主要な危険因子の一であることが判明している。喫煙者では、肺がんのほか、慢性気管支炎等の慢性閉塞性肺疾患のリスクの高くなっていることが観察されている。そのほかにも、喫煙と関連があると疫学的研究により指摘されている疾患、症状がある。

4  自らの意志とは無関係に、たばこ煙に曝露され、それを吸引させられることを広く受動喫煙(間接喫煙、不随意喫煙)という。受動喫煙においては、呼出煙及び副流煙の双方を吸い込む可能性があるが、後者は、前者に比べ刺戟性が強く、有害成分の含有量も多い。

受動喫煙の急性影響には、粘膜の煙への曝露によるものと、鼻腔を通して肺に吸引されそこから吸収された煙によるものがあり、眼症状(かゆみ、痛み、涙、瞬目)、鼻症状(くしゃみ、鼻閉、かゆみ、鼻汁)、頭痛、咳、喘鳴等が自覚されるほか、生理学的にも、呼吸抑制等の現象が観察される。また、受動喫煙は、たばこ特有の香りなどとも協同して不快感、迷惑感の原因となる。

受動喫煙の慢性影響については、特に肺がんに関し近時多くの研究が発表されている。平山雄の研究によれば、我が国の喫煙男性の妻の肺がん死亡率は、非喫煙男性の妻のそれに比して明らかに高く、かつ、夫の喫煙量とともに増大するという。その後、この問題に対する報告が続き、その約半数のものは、受動喫煙の肺がんに対するリスクを明らかに認めている。そのため、各国においてこの問題に対する公衆衛生上の注意が喚起されるようになっている。

しかし、このような研究には、後記のような方法論上の問題もあり、今後更に優れた方法による研究を行う必要があると指摘されている。肺がん以外のがん、呼吸機能の障害、虚血性心疾患についても、複数の研究において受動喫煙のリスクが報告されているが、リスクがみられなかったとする報告もあり、一致した結論は得られていない。このように見解の分かれている理由については、受動喫煙の曝露の時間及び量、個人の素因、素質及び健康状態の良否等の種々の条件が各研究において異なるという方法論上の問題があること、発がん要因は、たばこの煙に限られず、他の要因も関与していることなどが考えられるとされている。

5  労働省は、昭和六二年職場における禁煙に関する懇談会を設け、分煙の推進を提言した。

世界保健機構ヨーロッパ事務局主催により、一九八九年(平成元年)一一月第一回喫煙対策ヨーロッパ会議は、「たばこの煙のない新鮮な空気を吸うことは、健康的で汚染のない環境を享受する基本的な権利の一つである」「すべての労働者は、喫煙に汚染されていない職場で、呼吸をする権利がある」などの条項を含む「たばこ対策憲章」と題する勧告を採択した。世界保健機構西太平洋事務局は、一九九〇年(平成二年)から四年間にわたる行動計画として、「国および地方レベルでの喫煙に関する適切な規制計画を示すこと」などの点を考慮することを提言している。

以上のとおり認められる。

三  次に、被告の両中学校における喫煙に関する措置についてみると、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  被告は、志賀中学校において、平成二年九月旧宿直室を改造してソファー及び換気扇が設置されているサロンと通称されている場所(以下「サロン」という。)を設置し、同校管理職から教職員に対し、喫煙はサロンで行うよう協力を求め、平成三年四月の年度当初の教員会で再度、喫煙はサロンで行うこと及び会議中の喫煙自粛を要請した。また、平成五年六月には、職員室及び保健室のエアコンディショナー設置に伴い、その作動時に窓の開放ができなくなることから、サロンにおけるたばこの煙が職員室に流入するのを防止するため、サロンの入口にビニール製の透明カーテンを、サロン内に空気清浄器をそれぞれ設置した。その後も毎年度当初に、管理職において教職員に対し職員室での喫煙の自粛と喫煙はサロンで行うこと及び会議中の喫煙の自粛を指導しており、実際に職員室内での喫煙及び会議、打合せの際の喫煙は全く行われていない。サロンは職員室の一角に位置するものであるが、ここからたばこの煙が職員室内の原告の座席まで漂って臭うことはなかった。

2  被告は、桜田中学校においても、原告が同校に勤務することとなった平成七年四月一日には換気扇が設置されている喫煙コーナーを設置し、同校管理職から教職員に対し、喫煙は喫煙コーナーで行うよう要請し、平成八年四月には、同中学校に転任してきた教員に対し同趣旨の要請をした。同年七月にはたばこの煙の職員室への流入を防止するため、喫煙コーナー入口部分に透明プラスチック板を設置している。また、職員室内での喫煙は行わないようにする旨の申合せが教職員間でされており、会議、打合せ等の際には禁煙とされている。原告は、喫煙コーナーのたばこの煙が隣接する視聴覚室に漏れて臭いを感じることはあったが、廊下側でそのような臭いを感じたことはなかった。喫煙コーナーは、資料室内に設置されており、そこには執務上の参考資料が置かれているが、その帯出は許されており、他の場所でもこれを閲読することが可能である。

3  志賀中学校職員室においては、昭和六三年一月一三日、同月一四日及び平成五年六月二三日、同月二四日にそれぞれ作業環境測定調査が実施された。その結果、空気中の一酸化炭素及び炭酸ガスの濃度は、事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)三条二項所定の室内空気の環境基準の適正範囲内であった。

4  被告教育委員会事務局教職員課長は、各学校総括安全衛生管理者に宛て、平成六年五月九日及び平成七年五月八日「喫煙対策について」と題する文書を発し、「教職員の共通理解の上で、会議中の禁煙・喫煙自粛、喫煙者と非喫煙者の席の分離などの喫煙対策を、また、より根本的な喫煙対策としての喫煙コーナー・喫煙室の設置を、各学校の実情に応じて実施するよう求めた。

以上の事実が認められる。また、原告本人尋問の結果によれば、桜田中学校においては前認定の作業環境測定調査は実施されていないが、原告は、志賀中学校ではほぼ毎日たばこの煙が気になっていたのに対し、桜田中学校では資料室に入らなければ気にならず、資料室の中でも気にならないこともあり、たばこの煙の量は同中学校職員室内が志賀中学校職員室内よりも少なかったことが認められ、この事実と右3の認定事実とを併せると、桜田中学校職員室においても、空気中の一酸化炭素及び炭酸ガスの濃度は前記環境基準の適正範囲内であったと推認される。

四  さらに、原告自身が両中学校における受動喫煙によりその健康等にどのような影響を被っているかについてみると、証拠(略)によれば、原告はたばこの煙を吸うと、のどが痛くなったり、なんとなく気になったりするという症状があり、体調が悪いときは頭痛も加わることがあること、しかし、たばこの煙を吸うときはいつもそういう症状が出るというわけではないこと、これまでにたばこの煙により自分が体調が悪くなることについて医者の診察を受けたことはなく、それは、医者の診察を受けるほど重症になったことはないからであることが認められる。

原告自身の受動喫煙の影響として証拠上認められるところは、右に尽きるのであり、要するに、比較的軽微な急性影響以上に出るものではない。一般に、受動喫煙の慢性影響は、曝露の時間及び量、個人の素因、素質及び健康状態の良否等等の種々の条件に依存していることから、なお今後の研究を待たざるを得ない部分があるのであってそうである以上、受動喫煙が原告に対して、右認定以上に、その生命、身体に影響を及ぼしている事実を認定することは困難である。

五  原告は、被告が両中学校における他の教職員の喫煙について適切な措置を講じなかったことにより、その身体を侵害された旨の主張をするので、以下、この点について検討する。

前記のとおり、原告は、被告の教員に任命され、公共団体である被告との間において勤務関係にある者であるから、被告は、その職員である原告に対し、被告が公務遂行のために設置すべき場所、施設若しくは器具等の設置管理又は公務の管理に当たっては、原告の生命及び健康を危険から保護するよう配慮すべき義務を負うものと解される。

前記認定のとおり、受動喫煙の肺がん等の疾患に対するリスクの存在を肯定する研究が少なからず公表されていること、各国、あるいは国際機関の勧告において受動喫煙の危険性について公衆衛生上の注意が喚起されていることに加え、周知のとおり、我が国においても、近年医療機関や列車を含む公共の場所や職場での喫煙に対する規制が進んでおり、職場においていわゆる分煙化が定着しつつある状況にあることを併せ考えると、被告は、公務遂行のために設置した施設等の管理又は公務の管理に当たり、当該施設等の状況に応じ、一定の範囲において受動喫煙の蔵する危険から職員の生命及び健康を保護するよう配慮がなされるべきである。

しかし、右危険に対する配慮としてどのようなことを公共団体に義務付けるかについては、右危険の態様、程度、被害結果の状況等に応じ、具体的状況に従って決すべきものである。特に、受動喫煙の身体に対する影響は、前記のとおり、曝露の時間及び量その他諸種の条件の違いにより変動し、一律に断じ得ない性質のものである。それに対する配慮としてどのような措置が求められるかを論ずるに当たって、この点を軽視することはできない。

また、喫煙(受動喫煙を伴うことは当然の事理である。)は、我が国において個人の嗜好として長きにわたり承認されてきたところであり、非喫煙者も、職場における喫煙について若干の寛容さを持することも依然として期待されているといわざるを得ないのであって、このような喫煙に対する世の大方の見方も、看過すべきでない。

したがって、被告が、受動喫煙の蔵する危険に対して配慮すべき義務の具体的な程度、事項、態様としては、当該施設の具体的状況に応じ、喫煙室を設けるなど可能な限り分煙措置を執るとともに、原則として職員が執務のために常時在室する部屋においては禁煙措置を執るなどし(これらの措置が庁舎の配置上の理由等により困難な場合であっても、少なくとも、執務室においては喫煙時間帯を決めた上、これを逐次短縮する措置を執るべきである。)、職場の環境として通常期待される程度の衛生上の配慮を尽くす必要があるというべきである。

このような見地に立って、右三、四の各認定事実をみると、被告は、両中学校の職員室において喫煙をすることのできる場所の範囲を画然と区別した上、その空気が他の部分に流入することを防止する設備を設け、他の部分では喫煙しないよう求め、教職員も、皆了解して喫煙を控えるに至ったというのであり、禁煙措置等の実効はそれ相応に挙がったとみて妨げない(加えて、<証拠略>によれば、原告は勤務時間の少なくとも半分以上は教室で授業を行っており、その間はたばこの煙にさらされることはないこと、両中学校の庁舎の構造上、物理的に他の場所に喫煙室を設けることは容易ではなく、現時点では最大限可能と思われる分煙措置を講じていることも認められる。)。他方、原告の自覚する受働喫煙の影響は、のどの痛み及び不快感、頭痛という程度のものにとどまるのであるから、被告の講じた前示のような措置をもって、原告の生命及び健康を受動喫煙の蔵する危険から保護するよう配慮すべき義務を尽くしていないとはいまだ評価することができない。

そうすると、被告が公務遂行のために設置すべき施設等の管理等又は公務の管理に当たり、原告の生命及び健康を受動喫煙の危険から保護するよう配慮すべき義務に被告が違反したとはいうことができない。

六  原告は、被告が喫煙対策について適切な措置をとらなかったことが、原告の身体に対する違法な侵害に当たるとして国家賠償法一条一項に基づく損害賠償も請求しているが、右のことが国家賠償請求の原因となる違法な職務執行を構成するといえるかどうかは、それが右に説示したような安全配慮義務に違反したものであるかどうかと同様の見地によって決すべきものであるから、被告の受働喫煙に対する対策が前記認定のものにとどまることが、右の違法な職務執行に当たるとはいえず、国家賠償法一条一項に基づく請求も理由がないというべきである(原告は、損害賠償の根拠として民法七〇九条、七一五条をも掲げるが、被告の職員に対する勤務関係上の事項や、被告の設置する中学校の執務室における喫煙に対する庁舎管理上の措置というような事項は、いずれも、国家賠償一条一項にいう、被告の公権力の行使として行われるべきものであることが明らかであるから、これに関する公務員の違法な行為に基づく損害賠償については、民法の右各規定の適用を考える余地はない。)。

原告はまた、被告の義務違反の根拠法条として、労働安全衛生法三条一項、一〇条を援用するが、これらの各規定は、その趣旨及び文理からして、事業者に対し法律上の具体的義務を負わせたものとは解されないから、被告の債務の不履行の根拠となるものではない。また、右各規定は、労働者に生命身体という法益(これに対する侵害行為の主張に理由がないことは、前示のとおりである。)とは別個に、国家賠償法上保護されるべき権利利益を付与したものとも解し難いから、国家賠償法上の違法性の根拠となるものでもない。

第二原告の教育遂行上の権利の侵害の主張について

一  教師には、憲法上、高等学校以下の普通教育の場においても、授業等の具体的内容及び方法においてある程度の裁量が認められるという意味において、一定の範囲における教育の自由が認められるものと解される。しかしながら、右を超え、教師において、他の者(他の教師や学校を設置する者を含む。)に対し、教育している見解に同調することや、これに反する行動をとらないことを求める権利を有するというべき根拠は見当たらない(原告の行う教育の内容が学習指導要領の定めるところに合致するかどうか、あるいは検定を経た教科用図書の記述に副うものであるかどうかは、右の判断を左右しない。)

しかるところ、原告の主張する教育遂行上の権利の侵害とは、その主張自体によっても、他の教員が喫煙しているために原告のする禁煙教育が十分な効果が挙げられなくなっているという以上のものではなく、他の教職員が原告に付与された授業等の内容、方法に関する裁量に容喙するなどして、それを現実に侵害しているというに足りる事実は主張していない。また、原告が、同僚教師や両中学校を設置している被告に対し、原告の行う禁煙教育に同調し、又はそれに反して喫煙をすることがないように求め得る根拠はない。したがって、原告の主張する事実によっても、被告の公務員が原告の権利利益を侵害しているということはできない。

そもそも、教師がある理想、理念について教育する場合に、その理想、理念と異なった見解を有し、又はこれと相容れない態度をとる者がいたならば、教師としては、そのように見解、態度の分かれる所以を説いて生徒自らに考えさせるべきであり、あるいは、他の立場が是認される余地のないものであったとしてもこれをいわゆる他山の石として指導の材料とする姿勢こそが求められるのであって、右のような者が周囲に存在することをもって、自己の教育が害されたかのようにいうことは当を得ない。このことは、当該教師が生徒に対し指導している考え方と異なった見解を有し、又はこれと相容れない態度をとっている者が同僚の教師であっても変わりはないのであり、そのような同僚の存在があるからといって、原告の教育の自由や権利利益が侵害されたといえるものではない。

二  したがって、原告のいうような権利の侵害を理由とする国家賠償法一条一項に基づく損害賠償請求は、失当である(原告は、損害賠償の根拠として民法七〇九条、七一五条をも掲げるが、被告の職員に対する勤務関係上の事項は、前示のとおり被告の公権力の行使として行われるべきものであるから、これに関する公務員の違法な行為に基づく損害賠償について民法の右各規定の適用を考える余地はない。)。

また、原被告間の勤務関係においても、被告が、原告に対し、他の教職員が原告の禁煙教育の意図に反する行動をとらないよう努める義務の根拠は見出し得ないから、勤務関係上の義務の不履行をいうかのような主張も、それ自体において失当である。

第三結語

以上によれば、原告の本訴請求はその余の点についてみるまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 青山邦夫 裁判官 長屋文裕 裁判官 村瀬憲士)

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